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​エッセイ 共創する身体づくり

翻訳者のつぶやき1

コンステレーション ワークと出会って16年目に。私にとってのコンステレーション雑感

 Jan 18, 2017  

       @ matsudo-city, Chiba-ken

より、日常に近いところで、人間が体験し得る世界の可能性を広げていくような感じで、居合わせた人たちと共に、生きることの深淵を感じ、探求することができるフィールドを、じわじわと一緒に創っていく。

 共に醸成した場で、いのちの営みを体感したり、どうしようもないことに居場所があることを確認する。

これが、私にとって出逢ってから16年目にようやく言葉にすることができるようになった、自分の専門フィールドに留まることでできてきた、「自分流」ファミリー・コンステレーションとソーシャルワークの統合版です。

​私は、2001年京都でのバート・へリンガーのワークショップに参加して彼のワークに魅了され、当時英語で読める本はすべて読み漁り、その後、いくつかの場で舞台上のバートを観察してきました。2003年と2004年にバートのワークショップを開催した時や、2003年にサンタバーバラ、2004年にオタワでの彼のワークショップに参加した時、2006年に日本で彼のワークショップが開催された時は、バートのセラピー観について、個人的に会話をする機会もありました。

 そのような中、バートに対して、「どうしたら、あなたのようなワークができるようになりますか」「どうやったら学べるのでしょうか」といった質問が投げかけられる場面をたびたび見てきました。この類の問いに対するバートの答えは明快でした。毎回、表現の違いはありましたが、常に、「自分の専門のフィールドに留まること」を推奨し、その大切さを説いていました。
(※注1 下記参照)

 「精神病と診断された人たちと地域に生きる場を創る」というソーシャルワークの領域での活動体験がベースにあった私は、どんなにバートのワークに魅了されても、ファミリー・コンステレーションのワークショップを開催することやセラピストを養成することと私のフィールド(精神病と診断された人たちの現実)の間には乖離がありすぎて結び付けることができないできました。

 かわりに、このワークから得られる洞察や育まれる生命観や世界観を広く人々と共有したい(そうすれば、多くの仲間が救われる!)ということに駆り立てられていました。“Acknowledging What Is”を翻訳したのも、その再販をしたもの、この本が、バートのワークの手法の説明ではなく、バートの世界観、生命観を現わすものだったからです。でも本だけでは、十分ではない。体験する場がないと。。。体験の場としてはワークショップ開催が一番の早道だけれど、既存の形態のワークショップ開催はは私の関心からずれる。ワークショップの中でどうしても私が感じ取ってしまう「知らないうちに同意させられる感」に私の仲間(精神病の仲間やソーシャルワーク仲間)は首を縦に振らないという確信があって、どうしたものかずっともがいていました。

 3年前に相模女子大での演習を引き継いだことが、結果として突破口となりました。ここでは、結局、ファミリー・コンステレーションありきで紹介するのではなく、このようなワークが成立する土壌を、共に、ゆっくりと醸成していく、ということからやることになったからです。大学側が基本的に家族内の秘密を明るみに出すようなワークをすることに慎重だったことも手伝って、そういった制約の中でどこまでのワークがやれるのかを試すことができました。
 相模女子大の学生のフィードバックを読むと、このような次元で行うワークでも、ファミリー・コンステレーションの真髄(と私が感じているもの)が、共有することができるという感触を得ています。現在、似たような取り組みを、青戸やくじん延命寺で行っている「てらたん講座―暮らしの中で「聴く」時に使う技・立脚する世界観の探求―」でも始めています。そこでは、ファミリー・コンステレーションを、人間存在の深淵の理解を深めていく、世界観や生命観の探求のツールとして用いています。

 

 より、日常に近いところで、人間が体験し得る世界の可能性を広げていくような感じで、居合わせた人たちと共に、生きることの深淵を感じ、探求することができるフィールドを、じわじわと一緒に創っていく。

 共に醸成した場で、いのちの営みを体感したり、どうしようもないことに居場所があることを確認したり・・・私はそれが、とても「能」の舞台が持つ作用と似ているのではないかと感じるのですが・・・これが、私にとって出逢ってから16年目にようやく言葉にすることができるようになった、自分の専門フィールドに留まることでできてきた、「自分流」ファミリー・コンステレーションとソーシャルワークの統合版です。

「いのちの営みをありのままに認める」という死生観や生命観の共有や具現化は、きっと様々な形で成し得るものだと思います。日々の暮らしの中で排除してきたもの、されているもの、置き去りにされていることに目をむけ、居場所をつくっていくことや、ちゃんと「閉じる」ことも、この死生観や生命観に沿ったものですよね。私自身は、今、生きていると否応なく分断されてしまうという現実に目がいくことが多く、その分断を超えられる「みんなが一つであることを感じられるお墓」を作りたいという欲求にかられていますが、それだって、バートから影響を受けた生命観を具体的に社会に現わした一つの形です。
 これまでの専門フィールドにおいてワークショップを開催するような場をすぐに創れる人は、それをしていただく。そうでない方の中で、このエッセイを読まれて、共有や具現化の様々な可能性を感じていただける方がいたら嬉しく思います。それぞれの方がそれぞれの「自分流」で「いのちの営み、ありのままに認めて」いくような動きを作っていけたなら、人として大事なことを置き去りにして人任せにして誰かにしわ寄せをしていくことが横行しているこの社会のバランスをとっていく動きにつながっていくのではないかと感じています。

長くなりすぎました。お疲れさまです。読んでくださってありがとうございました。

 

(※注1)バートが「自分の専門のフィールドに留まること」を勧めていた姿を私が最後に見たのは、2006年のこと。少なくともそれまではバートはそういう立ち位置でした。私自身はバートのワークが大きく一段階変化する過程(ほぼ変化し終えていたと私の目には映っていますが、このあたりの話はまた別枠で)に出逢っているのですが、当時は、「私はスクールは作らない」と言い切っていました。「集団的良心」が作用してしまうからと。今現在、バートはスクールを持っています。今、同じ質問をしたら異なる答えが返ってくるのかもしれませんね。

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