エッセイ 共創する身体づくり
翻訳者のつぶやき2
大学でコンステレーション・ワークを教えることで学んだこと
~大学生が授業の一環で代理人の体験をするということを通して学んだことから垣間見えてくるコンステレーション・ワークの可能性についての雑感(学生のワークノートを振り返って)~
Jan 18, 2017
@ matsudo-city, Chiba-ken
より、日常に近いところで、人間が体験し得る世界の可能性を広げていくような感じで、居合わせた人たちと共に、生きることの深淵を感じ、探求することができるフィールドを、じわじわと一緒に創っていく。
共に醸成した場で、いのちの営みを体感したり、どうしようもないことに居場所があることを確認する。
これが、私にとって出逢ってから16年目にようやく言葉にすることができるようになった、自分の専門フィールドに留まることでできてきた、「自分流」ファミリー・コンステレーションとソーシャルワークの統合版です。
現在、私は、「いのちの営み、ありのままに認めて」を教材に、システミック・ファミリー・コンステレーションの演習の講座を一コマ、相模女子大学で担当しています。今日は、大学でのファミリー・コンステレーションの演習を終えて感じたことを、つらつら綴ってみようと思います。
相模女子大学の人間社会学部人間心理学科は、ヨガや瞑想、身体技法などを体験する「演習」が充実していることが特徴です。カリキュラムの骨子を作っていた教授から、ファミリー・コンステレーションを体験できるものも是非入れ込みたいという話があって、8年前から「臨床心理学演習V」としてこの演習が加わりました。夫の谷口隆一郎が5年間担当し、2014年度から私が引き継いで担当しています。
大学の講座の中でファミリー・コンステレーションを扱うには、ふだん一般向けに開くワークショップとは異なる配慮が必要です。学生の多くは、心の専門家になることに強い関心があって受講しているわけではありません。大方の学生は、心理や福祉など援助職に就くことは目指しておらず、一般企業に就職することを希望しています。第1回目の演習では受講の動機を尋ねることにしていますが、「演習をとろうと思ったらこの演習しかスケジュールがあいていなかったから」と答える学生もいたりします。
そして、受講生たちは、このクラスルームに来る前には何かしら別の授業に出ていて、このクラスが終わったらまたすぐに、「日常」に戻るわけです。受講生は、その「日常」では、大学の友達同士だったりするわけで、中には、家族内の問題や悩み、親との関係など、友達には話さないようにしているということもあり得ます。家族との問題は扱いたくない、という学生もいます。(大学側からの、「家族内の秘密を明るみに出すことで学生が傷つくことのないように気を付けてください」という要望もあります。)
そのような訳で、大学での演習は、常に、このワークを受ける動機も心構えもない学生も交っている状況で、ファミリー・コンステレーションを体験する場をどのように構築するか、学生時代にする体験や学びとして意味あるものにするには、どうするか、という問いと向き合いながら進めています。
「ファミリー・コンステレーションとは、こういうものです」、「バートへリンガーはこう言っています」という姿勢(ファミリー・コンステレーションやバート・へリンガーの権威を前提としているありよう)では、ファミリー・コンステレーションやバート・へリンガーにもともと関心が特にない人には通用しない訳です。
「で?」、「だから?」で終わってしまいます。学生が演習で感じ取っていることを身体全体で聴き取り、細かにそこにアテンドしながらすすめていく。使い古されてしまって(残念なことに)つまらない言葉となってしまった言葉ですが、まさに「よりそう」の究極のあり方がここには求められているなと感じながら担当しています。
(ソーシャルワーカーにとっては、ワーカー自身の中に無自覚にある善や願望を押し付けていないかどうか自覚する「自己覚知」の姿勢といえば伝わるかと思います。)
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講座は、全15回、1回90分。
今年度の受講生は15人。
最初の5回は、ただただ、身体を感じ、感じたことをそのまま感じることに慣れていくエクササイズの繰り返し。もし何か感情があがってきたら、それをそのまま観る。何も感じなかったら、感じないということを感じるだけ。感じてはいけない感情なんてない。良いも悪いもない。正しい、間違いもない。・・・それは、「正しいあり方」という、普段自分が無自覚にもっている前提に気づいていくようなプロセスといえるかもしれません。
演習の初期では、自分の感じていることをそのまま言葉にしていくことも練習していきます。そうする中で、解釈を話すことと感じたことを話すことの違いが明確になっていく。しだいに学生たちの発する言葉の中に、「場」とか、「動き」とか、「身体感覚」とかいう言葉が自然に出てくるようになる。
「このクラスでは、どんなことでも言葉にして大丈夫らしい」ということが場の雰囲気から伝わっていくと、学生たちの表情や発言内容から、リラックスしている様子が見受けられてくる。そうなってきたところで、心や感情のメカニズム、それから心の問題に対するシステミックなアプローチということの座学を挟んで、実際に代理人を立ててファミリー・コンステレーションの体験へ。
今年は、第7回目からコンステレーションの体験がはじまりました。
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そして、先週の木曜日が最後の演習の日でした。
まずは、まとめとして「いのちの営みありのままに認めて」のp48から、ファミリー・コンステレーションのようなワークをする時の姿勢として大切な、現象学的なアプローチのガイドラインの説明――内容は、主に、気づきには愛(そのままのその人を、つまりその人の運命、家族、問題すべてを含めたその人を受け入れる姿勢)が必要であること、それから、葉、枝ではなくて木をみて森をみるをたとえにしながら、ありのままの事実とありのままの作用をそのまま包み込む視点には一定の距離感が必要であるといった事柄――をしました。
9月から繰り返し、「ありのまま感じる、ありのまま観る」を体験してきている学生は、この辺りの説明には、体験に基づいてうなずきながら聞けるようになっている様子でした。
そのあと、一つのコンステレーションを行ったところ、先祖の存在の重要性が感じられるものになりました。そこで、ふとひらめき、「では、命の流れを感じることをやってみよう」ということになりました。(結局それが今期の最後の演習、閉めのエクササイズとなりました。)
とりあえず即興で、「命の流れ」と名付けたそのエクササイズでは、図のように、「私」(①)の背後に、両親、その両親(祖父母)、そのまた両親(曾祖父母)というように学生たちに立ってもらいました。出席者が15人だったので、ちょうど4世代分を配置することができました。つまり、「私」の命は、4世代(100年位)遡ぼると、これだけの命から流れてきているのだということを現わす代理人たちを配置したということです。
(バートのワークの最中にもこのように代理人が配置されることはありましたね、そういえば)
行ったエクササイズは極めて単純なものです。
まず、「私」の位置の人が前をむいて立ち、深呼吸をして代理人モードになってから、ゆっくりと後ろに振り向きます。
振り向いた時に感じたことを十分に味わったら、おしまいです。
受講生一人一人が「私」(①)の位置を体験できるように交代します。
振り向いた時の学生の反応は、目を見開いたり、後ずさりしたり、息を深く吸い込んだりと様々なものがありましたが、では実際、どのような体験をしたのでしょうか。
以下に、このエクササイズで感じたことや考えたことについて、授業の最後に提出するワークノートに記されていた学生たちの言葉をいくつか挙げてみます。
「背中に物凄く大きな力を感じた。自分がこの世に生を受けるまでこんなにも多くの人たちがいたおかげと思ったら、自然と力をもらったような気分になりました。」
「ずっしりとした重さがあった。」
「今、自分がこの世に生まれてきたのもご先祖様がいるからなんだと強く感じた。」
「自分が産まれたのは奇跡なんじゃないかと感じた」
「拝みたくなった」
「自分が一番後ろにいる時と、一番前にいる時の圧力が違いすぎてビビッてしまった、、、。」
「圧倒された。」
「改めて祖先のことを考えるとすごいなって思った。この先100年たったらどうなるのかすごく気になる。」
「呼吸をすって振り返ってちょっとびっくりしてしまい、視線が下がってしまいました。恥ずかしかったです。」
「深呼吸をして後ろを向いた時に、少しトリハダが立って上半身が熱くなったような気がした。」
「圧力を感じ「ハッと」した。何か力を感じた。」
「一緒に住んでいる家族だけではなくて、自分を支えてくれた人の多さに驚いた。今の自分が存在するのはその人たちのおかげなのだと思った。先祖たちに感謝をしていきたい。」
「今この時代にここにいることがすごいことだと思いました。一人でも違ったら自分はいないかもしれませんよね!」
「自分が存在しているのも、いろんな出会いや奇跡があるからなのだと思いました。自分の家系の歴史を知ってみたいと思ってしまいました。」
「あたたかいものやエネルギーを感じたし、プレッシャーも感じた。」
「『支え』が目に見える形で現れた。時々後ろを振り返ってもいいかも」
「命は大切だとずっと言われ続けてはいるけど実感したのは今回が初めて」
そして、演習の最後ということに対して、
「普段体験できないことをたくさん体験できました。面白かったです!」
「身体で感じることをこれからも大事にしていきたいと思います!」
「このクラス、受講してよかったです!」
といった講師の私に対するねぎらいのコメントを添えてくれる学生がたくさんおりました。
全体的に他者に対する配慮がある学生が揃っているという印象を受けていたのですが、ねぎらいの言葉がたくさんあったことは、素直にうれしいことでした。
学生たちにとっては、この演習は、何かしら良い体験になったようです。少なくとも、身体感覚を拾ってその感じていることをそのまま受け取ることへの抵抗はなくなっていて、つかみどころのない何かを楽しみ体験する、ということをしはじめている様子が伝わってきました。
私としては、「たまたま受けた授業で不思議な体験をしたけど、あの時はよくわからなかったけど、あの時に身体で感じた、圧倒的な力が自分を支えているという感覚はなんだか忘れられない」ということが、身体感覚を伴った記憶として少しでも残ってくれたならそれでいいと感じています。大学を卒業して、社会に出て、何かの時に思い出すようなことがあったなら、特に窮地に立たされた時に、ふと思い出してくれる生徒が一人、二人、いたならば、それで十分。そんな思いで今期の演習を閉じることができて、ほっと安堵しています。
演習が始まった9月当初や、代理人を最初にやったときのフィードバックでは、とまどいや疑問、疑念のコメントがたくさんありました。そのことを思い返すと、大学の授業としての意義ということでいうならば、大学の講義の一環という制約ある場でやり得ることとしては、まずまずのことがやれたのではないかなとも感じています。
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さて、ここで、「大学の講義の中でやることとして、まずまずのことがやれた」と書いた意味を、少し解説してみたいと思います(長くなりますがご勘弁)。
まず、「代理人」は、「代理人」として配置された時に、自分の身体から動きがでたり、感情がわいてきたりするということを体験します。これが、何なのか、なぜなのか、は科学的に証明できるものではありません。ファミリー・コンステレーションは科学的に説明できないこの事象を使います。ということは、このワークは、ある種の前提に対する同意を要するということです。
前提とは、この、科学的に立証できず、論理的に説明できない、よくわからない事象には何かしらの意味がある――より正確に言うなら、代理人らの動きは、代理している家族内にある力動が立ち現れていると捉えると見えてくるもう一つの現実の世界がある――というものです。
大学の講義でファミリー・コンステレーションを行う場合、この前提に同意するつもりもない学生も多々集まっています。その学生たちを置き去りにすることなくこのワークを紹介していくことが講師に課せられたタスクです。ということは、まず講師は、科学的に立証されていないものごとを前提にすることへの合意形成を図ることが必要となります。
私自身は、生きること、暮らすことの実態(実感)のほとんどは、体験や体感、理屈では説明できないものごとからなっているのではないかということを、様々な状況や事例、自分自身の体験を話すことから始めます。そして、私自身は、もし、科学的に立証ができない体験でも、それが、その人(クライアント)の生きる力になるようであれば、その人が強く日々を生きるということを後押しするものであれば、それを使えばいいという立場でいることを話します。
これを、人間が意識で捉えていることはあてにならず、身体で捉えていることの方が真実であるかのように話すことには抵抗があります。身体性を優位において意識を下位に置くというのは、少なくとも大学ですることではないと。人間は、論理的思考を持っているということも人間の大事な側面であり、論理的に説明できない圧倒的な体験をより優位(または過大視)するような視点では、きっと社会的に機能しづらくなってしまう。(実際には、機能できる職種や場というものはありますが、少ないですね)。少なくとも、大学は、学生を社会的に機能しづらくなるように導くところではないのですから。
そんなふうに考えると、今回の演習では、学生たちは、科学的に証明されていない事象に対して、程よく健全に関わり、自分自身の生きる糧となる理解や洞察を得るというプロセスを体験できたのではないかと思います。大学の講義の中でやることとして「まずまずのことがやれた」というのは、このことを指しています。うまく論理的には説明できない事象を、それでも有意義であるならば、自分の中に落とし込んで活かしていくことができることは、おそらく、これからの人生の中で生きてくることがあるのではないかと思うからです。
今回の演習を終えて感じているのは、今回、そんな体験(程よく健全に理屈じゃ説明できない事象に関わり、生きる糧となる理解や洞察を得る)をするツールとしてファミリー・コンステレーションを用い、学生たちはこのような姿勢を体得することで、代理人の体験から「命の流れ」を体感することができたのではないかということです。
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